脳腫瘍(神経膠腫)手術後の高次脳機能障害の日々

31歳11ヶ月で左前頭葉神経膠腫の手術を経験。その後の日常を気まぐれで更新。以下URLは病気関係の本棚です。https://booklog.jp/users/cloverbk/all?category_id=3559096&status=all

脳腫瘍に関連する本、映画

脳腫瘍になってから1年余り。

その間、脳腫瘍を取り扱った作品や本をいくつか見てきたので紹介します。

 

・仁(テレビドラマ)

脳外科医が江戸時代にタイムスリップするお話。実はこれが元々自身が脳腫瘍がきっかけでタイムスリップしたことになると知っていた方は少ないのではないでしょうか。奇しくも、このドラマの中に出てくる「神は乗り越えられる試練しか与えない」という台詞は、後に紹介する横田慎太郎さんの「神様は乗り越えられない試練は与えない」という言葉と酷似していました。

 

・春の香り

愛知の高校教員の娘、春香さんの実話。小学生で膠芽腫を宣告された春香さんの高校卒業時くらいまでの闘病生活を前半は母、後半は父がそれぞれ綴っています。前半部分は、最愛の娘を亡くした母が語る、発症前の春香さんの様子、退院して元気だった頃、亡くなるまでの物語。後半部分は、父が日記調で娘の最後の数ヶ月間の様子を綴っています。

 

・奇跡のバックホーム

今年亡くなった横田慎太郎さんの実話。阪神優勝時も話題になりました。腫瘍名は明かされてませんが、感動する作品です。なお、同名の間宮祥太朗さん主演のテレビドラマもあるようですが、ローカル局が作成したためネットでは見れないようです。

 

・医者が末期癌患者になってわかったこと

脳腫瘍専門の脳外科医自身が50歳くらいの時に膠芽腫になってしまったという実話です。本人の日記をもとにして「脳腫瘍になった脳腫瘍専門医」という極めて稀な、貴重な立場から使命感を持って書かれています。発症から1回目の手術、再発して3ヶ月後に2回目の手術、そしてまた3ヶ月後に3回目の手術を受ける(日記を書ける状態であった時)まで書かれています。

 

・続医者が末期癌患者になってわかったこと

3回目の手術を終えて夫が半身麻痺になり、日記を書ける状態でなくなった後、録音テープに吹き込んだ内容と、妻の日記をもとに編集された本です。亡くなる半年前の様子まで書かれています。最後の先生の救ってくれた患者からの手紙には感動しました。

 

・医者の夫をがんに奪われて知った愛と真実

夫が亡くなる直前の半年間の様子を妻の日記をもとに書かれた本です。「脳腫瘍で死ぬ時ってこんな感じなんだ」と自分的にはこれが1番知りたい情報でした。

 

・20歳のソウル

市立船橋高校の「市船ソウル」を作った吹奏部員の実話です。元々肺原発の腫瘍ですが、その後脳に転移したので、一応ここに載せておきました。去年手術を受けてから70くらいの映画・ドラマを観ましたが、その中でも自分の中では上位に入る作品でした。

 

・脳腫瘍 機能温存のための治療と手術

都立駒込大学の先生の覚醒下手術について書かれた本です。脳腫瘍に関する種類などを体系的にまとめられている点でも参考になりました。アホエンオイル、ノニジュースをはじめ効果の出ている民間療法の記載もありました。

 

・携帯電話と脳腫瘍の関係

1年くらい前に読んだ、アメリカの大学の科学者が書いた本です。Wi-Fiがよくない、電子レンジの近くにいたらよくない、とかざっくりそんな内容でした。でも完全に避けることは現代の世界ではできないから、極力避ける(使っていない時はWi-Fiを切る、ドライヤーを極力頭から離して使う、電子レンジから極力離れる)というのが趣旨だったと記憶しています。

安楽死に関する情報を集めて考えてみた

脳腫瘍で手術する度に機能低下して、しかも毎晩のように頭痛が起きると「もう苦しみから解放されたい」「なるべく楽に死にたい」「職場や家族に迷惑をかけずに消えたい」という発想が意図せず時々は出てきてしまい「安楽死」というワードがつい気になってしまいます。自分のような独身で子どももいない人だとそう思う気持ちもわかってもらえるのではないでしょうか。

そこで「安楽死」に関する情報を集めて自分なりに考えてみました。

 

まずは1ヶ月ほど前にフジテレビで安楽死に関する番組をやっていたのでそれを観た。

その番組によると、唯一外国人の安楽死を受け入れているスイスの団体での安楽死申請のために必要な書類は
①死を希望する理由書
②自身と家族の略歴書
③医師の診断書

で、全て英語で書かなければいけない。
日本だと③が自殺幇助に当たり犯罪に問われる可能性があるため、日本の医師に書いてもらうのはなかなか厳しいようだ。テレビに出演された安楽死を希望する40歳くらいの男性(全身に激しい痛みが生じる難病の方)はオンラインで海外の医師に交渉して書いてもらい、団体から承認を得たものの、やはり病と闘う決意をし、安楽死はしなかった。約2年間取材を受けていたパーキンソン病の60歳くらいの女性は、途中で連絡が途絶え、後の関係者への取材でスイスのライフサークルという団体で安楽死を遂げたことが分かった。

続いて、先日宮下洋一さんの「安楽死を遂げた日本人」を読んだ。本を読んだ感想を最初に述べておくと、冒頭から読んでいてすごく読みやすい。「宮下洋一さんの文章のファンです」というのをamazonか何かのレビューで見かけたがわかる気がする。章構成もよかったと思う。

その本によるとスイスで安楽死を受けるには以下の4条件が必要とのこと。

①耐え難い苦痛がある

②回復の見込みがない

③代替治療がない

④本人の明確な意思がある

多系統萎縮症という難病(ドラマ:1リットルの涙と同じ病気)を告げられた51歳の小島ミナさんは、近い将来自分であらゆること(排泄、入浴、会話など)ができなくなる前に安楽死をしたいという動機で、色々紆余曲折はあったが、2018年11月にスイスのライフサークルで日本人初めての安楽死を遂げた。同じくスイスのディグニタスという団体も外国人安楽死希望者を受け入れており、2019年時点で少なくとも3人の日本居住者が死亡したという統計資料がある。(ディグニタスは外部にほとんど情報を公開していないためその実態はよくわかっていない)ちなみにライフサークルは点滴のストッパーを開けること、ディグニタスは薬物を飲み込むことで死を遂げる。ライフサークルは昨年秋に新規会員募集を停止した。

2017年頃、脚本家・橋田寿賀子さんの安楽死に関する発言が話題となったのを覚えているだろうか。筆者の宮下洋一さんの橋田さんの考えに対する感想は「自らの死への動機が人への迷惑であるというのがなんとも日本的な思考で、欧米はあくまで個人の権利としてそれを捉える」という民族的な観点からの考察であった。

同じく小島ミナさんの橋田さんの考えに対する感想は「自らが望む限り、その結果、生じる痛みや責任は本人が負うべき。迷惑かどうかは介護当事者自身が判断すること 。介護を受ける立場としては、下の世話を受けながら、はたして自分はそれでも生きたいという願望を持っているのか、自分の気持ちの確認が必要」であった。

また自らの病気に関して「この病気はアンハッピーな期間が長すぎる。苦しくても命があればいいのか」といった苦悶を綴っている。

また、イギリスは緩和ケア先進国であり、スイス、オランダ、ベルギーなど安楽死が認められている国のことを緩和ケア後進国と見做している。緩和ケアのセデーションとは、治療に対する体の抵抗によって生じる苦痛を緩和する目的で、鎮静剤などを投与することである。たとえば、末期癌患者に薬を投与し、意識レベルを下げることで苦痛から解放させるとともに、死までの自然な過程を見守る医療措置が挙げられる。日本での緩和ケアガイドラインは以下を参照されるとよい。https://www.jspm.ne.jp/files/guideline/sedation_2005/sedation01.pdf

小島ミナさんは、自分が末期癌だったらセデーションを選んだかもしれないと死の直前に話していた。

末期の大腸がんを告げられ安楽死を希望した40代半ばの男性は、ディグニタスへの登録を済ませ準備を進めていたものの、病状が悪化し安楽死を遂げられずにこの世を去った。生前「あくまでイメージですが、緩和ケアで100%痛みがないとは限らない。なるべく痛みがない形でQOLを保ちたい」と話していた彼は、ディグニタスの入会承認がおりた時「自分の最期について病院以外の選択肢が見えたことでそこまでは頑張ろうという気持ちが持てた」と語っている。筆者は彼から「自分の最期を決めるのは自分だ」という気持ちを感じ取れたという。安楽死を希望する日本人は、緩和ケアとは痛みをごまかしつつ病と闘うものというイメージを抱いていて、安楽死については、安らかに眠れるものと認識している、と筆者は述べている。実際この本を読む前の自分もそう思っていた。

筆者曰く、それまで2年間の安楽死取材を通して、安楽死の最期には家族の関係性が大きな影響を及ぼすと確信をもったようだ。これはつまり、家族仲が悪いゆえ孤独感を味わう人々が安楽死願望を抱く傾向が強いということだ。実際この男性も家庭環境が順風満帆とは言えず、妻とは離婚歴があり、現在父と暮らし、その他に結婚して家を出た妹がいる。妹とは関係良好だが、父とはスムーズなコミュニケーションがとれる状態ではないという。

後に関係者への取材を通して分かったことだが、死の直前、彼は父と妹に心を許していたようだ。このことから筆者は、肉体的な苦しみを味わわずとも精神的な痛みを抱えたまま死にゆくことは理想の逝き方と言えるだろうか。肉体的には苦しくとも精神的な喜びを持って自然な眠りに就くことが理想の逝き方ではないだろうかという問いを読者に投げかけている。

ここで自分なりの考えを述べてみる。

筆者の「家族仲が悪いゆえ孤独感を味わう人々が安楽死願望を抱く傾向が強い」という仮説に関して、自分も両親が離婚し、父母とのそれぞれの関係は一応良好だし、妹弟関係も仲が悪くはないが、自分の性格的に一定の距離を保った付き合い方しかできないため、共感できるところもなくはない。でもほとんどの家庭が大体そんなものなのではないだろうか。

2か月前90歳を迎えた父方の祖母が以前「同年代の友人というのは時に家族以上に大切な時がある」と言っていた。祖母は約10年前に夫をなくし、家は北陸地方で父とも自分とも離れて暮らしているのだが、短歌が趣味でその短歌を通じて仲良くなった友人と長年仲良くしている。

実際、自分のことを振り返ると1番幸せな時間が多かった大学時代も、社会人になって以降コロナ前までも、友人が多かったからかそんなに孤独感を感じることもなかった気がする。27歳の頃までは付き合っていた彼女もいたし、それ以降年々減ってはいたけれど、年に何回か合コンや旅行も行ったし、それなりに楽しい思い出もあった。コロナで物理的に人と会えなくなり、資格勉強に打ち込んだはいいが2年続けて惜しくも落ちて、資格試験合格後の実務補修や飲み会で同じ合格者と仲良くなろうという算段も崩れ去り、気を取り直して研究を頑張ろうとしていた矢先に脳腫瘍になり、言語野がやられ、人と以前のようには思うように話せなくなり、結婚して子育てに忙しくなる友人が増えるとともに、益々自分の孤独感も増していったように感じた。

話が脱線しかけたが、要は「家族仲が悪いゆえ孤独感を味わう人々が安楽死願望を抱く傾向が強い」という説は、必要条件であって十分条件ではないということだ。(逆かも)「安楽死願望を抱く傾向がある人は、家族仲が悪い人が多い」は常には成り立たない。(と思う)

筆者の「肉体的には苦しくとも精神的な喜びを持って自然な眠りに就くことが理想の逝き方ではないだろうか」という主張に関しては、正直難しいところではあるなあと思った。

 

以上何となく安楽死というキーワードが気になって色々と情報を集めて、自分なりに考えてみたが、結論は、まだ安楽死が認めてもらえる条件には自分は達していないようだった。

でもこれから末期がんになる可能性もあるし、痛みが耐えられない難病になる可能性もあるので、なるべく考えたくはないがもし自分が条件に当てはまったら選択肢の一つとして考慮に入れておきたいなと思った。緩和ケアが進んでいるイギリスでも安楽死に賛成の国民は3/4くらいいるらしい。これから10年、20年単位で日本で安楽死が認められる可能性は全然あると思うし、それを必要とする人もいると思う。何より小島ミナさんと一緒にスイスに渡った姉は、小島さんが思ったよりも苦しんでいなくて、安楽死に悪い印象をもっていなかった。

この歳で自分の最期について考える経験を持てたことはこれからの人生を歩む上でとても良い経験になった。

あとこちらのブログもこの本についてまとめたもので、こちらの方が分かりやすかった。

https://minimalism.jp/archives/4128/amp

術後410日後 再手術14日後

あっという間に退院の日を迎えることに。

その間術後5日目くらいから点滴が外れ、心電図が外れ、段々と自由になっていきました。皮下貯留液も今週くらいから徐々にとれていきました。

入院期間中観た映画・漫画は、winny、blue jiant、チームバチスタの栄光、ゼネラルルージュの凱旋、トークサバイバー、こっち向いてよ向井くん、花束みたいな恋をした、ドラゴン桜2でした…。もうお腹いっぱいです。日本のエンタメ界の皆様、入院中退屈にさせないでくれてありがとうございました。

それから本は、五体不満足という乙武さんの本を読みました。

20年以上前に出された本ですが、乙武さんは自分より障害の程度が重いにも関わらず、何でも前向きに取り組んでいました。

これを読んで、同じ闘病ブログでも、前向きに捉える人とそうじゃない人とでは、読者の受け取り方も違うなと気づきました。

自分も見習って前向きに生きようと思います。

 

病理検査の結果は前回と変わらずでした。11月からは1年前に入院していた病院で外来リハビリに通うことになりました。以下は入院していたリハビリ病院のスタッフが書いてくださったものです。

しばらくは久しぶりの自宅を満喫します。


"今回の術後により著明な麻痺はなく、 基本動作、 ADLは自立されています。 当院で必要な高次脳機能評価を実施し下記に記載しています。 CATを実施しており、検査結果は本人にお渡ししています。 1年前に○○リハビリテーション病院で同検査を実施しており、 比較するとAuditory Detection Taskで低下を認めますが、 日常生活上で聴覚性注意の低下はみられず、 実施環境によるものと思われます。
言語訓練は10/16より介入開始しました。 言語機能評価実施し、 軽度喚語困難、想起困難、文作成時の内容の乏しさを認めています。 訓練では新聞読解・要約課題や文章レベルの発話訓練(説明課題など) を実施していますが、 ご自身の考えを統合して相手に伝える際に時間を要したり内容の乏しさから聞き手の確認が必要な場面が多い状態です。"

術後399日後 再手術3日後

久しぶりの平熱36.8°。頭痛は10段階で5くらい。改善に向かっている。

朝から漫画を読んだ。昼からリハビリの担当の人が来て、その人とは気が合いそうだった。今回術前の自分と比べると比較的軽度の障害で済んだ。

映画winnyを見た。その中で弁護士が「恋愛の目的はあなたが誰かを好きかその気持ちを伝えることですか?それやったらその考えを改めてください。私の考える目的は、相手に好きになってもらうことです。そのためには自分の気持ちを伝えることだけが答えじゃない 」

が響いた。

夜の担当はA看護師だった。A看護師は、仕事のできる、医師からも仲間からも信頼される看護師だった。この1年で自分のタイプは明確になったしA看護師も冷静に考えると見た目がタイプなだけで性格は自分とは合わないなと思ったが、そもそも恋愛の目的を履き違えていたとは。。

ところで、そもそも脳はどのようにして容姿の魅醜を判断して、可愛いとか可愛くないとか思っているんだろうか。以下は最近読んだ「脳の仕組みがわかる本」からの引用である。

"一目惚れという感覚はもちろん、恋愛は、理由はわからなくても、 相手がなぜか気になって始まることが多い。

そうした人間の本能的な感情、好き嫌いなどは、脳幹の視床下部大脳辺縁系扁桃核が生み出している。 直感的に 「好き!」と感じたり、「生理的にダメ!」 と感じたりするのは、視床下部扁桃核の意見である。ただし、種の保存という唯一の基準が定まっている動物と違って、人間の決定はこの意見だけでなされない。 例えば、「タイプだけれどまったく働かない男性」と、「タイプではないが大金持ちの男性」にプロポーズされた場合、即答できる女性は少ないだろう。

それは、脳の恋愛のメカニズムが、タイプの男性と結婚したいという、視床下部扁桃核の本能的な判断を受け、最終的には前頭連合野が決定するしくみになっているからだ。"

これはさらに近代化が進んだ現在の先進国の世界では、意思決定が複雑になっているように思う(たとえば結婚できるのに子育てに追われて自由を奪われるのを恐れる女性とか)。

術後398日後 再手術2日後

朝5時にトイレ、朝7時半に起床。しんどかったが朝食は全部食べた。今日部屋移動するかもらしい。今のところ頭痛がひどすぎて持ってきた本はほとんど開いていない。

手術直後の頭痛は昨日と変わらず10段階中6か7くらいだったので朝食後アセトアミンを点滴してもらった。だいぶ楽になった。英語のTOEICの勉強をした。しばらくして前から気になっていたブルージャイアントを持ってきて欲しいと母に連絡した。部屋移動しなきゃなので、荷物の整理をした。病着はエランのCSセット販売を扱ってるので、ポロシャツなどはいらなかった。

主治医が来たので会話をした。

「日曜日もおつされさまです」「何してるの」「TOEICの勉強です。先生は何点でしたか」「たしか留学行く前に815点とった気がする」「すごいですね。ところでこれ〇〇の漫画の〇巻に父が出ているんです」「へえーすごいね、息子は出てないの」「出てません笑」「○くんは何の研究してるんだっけ?」「〇〇の研究です」「大学は?」「名古屋です」「へえーすごいね。来月学会で行くよ」みたいな感じで会話が続いた。初めて主治医の先生とこんなにも会話が続いた気がする。

その後隣のベッドの人が介助浴をするらしいので、看護師Aが入ってきた。暑かったので服を脱ぎたかったが、点滴がつながっていて看護師さんがいないと外せない。看護師Aが私やりますよと声かけてくれた。気まずくて何か話そうとしたが、話せなかった。介助浴も名乗り出てくれたが、今日は1人でやってみますと答えた。さすがに恥ずかしいなと思った。。

風呂に入って軟膏を塗ってもらって、リハビリの人が来た。リハビリでは球を投げたが問題なかった。

知能面も大きくは変わってなかった。安心した。

 

リハビリが終わり16:45頃部屋に着いたところ、てんかん発作が起こった。まず初めにまだ手足がギリギリ動かせるくらいの電撃が広がり、そこから完全に気を失うまで3〜4秒くらいだった。最後は右目の奥に電撃のようなものを感じた。脳内出血したかと思った。1時間後の17:40頃徐々に意識が戻り、現実と夢の狭間でなにがなんだかわからなかった。やや寒かった。退勤間際の看護師さんに「○さん大丈夫?」と言われたのを覚えてる。「倒れましたか?」と聞いたけど上手く言葉にできなかったのかもしれない。看護師さん曰く寝ていたと思っていたらしい。実際ベッドに横になっていた。抗てんかん薬でうまくコントロールできていたと思っていたのに。ここが病院でまだよかった。

夕食はフルーツだけ食べた。吐き気がしたので夜中に吐いた。それからはスッキリ眠れた。

術後397日後 再手術翌日

朝になるとシーツ変えてもらった。体も拭いてもらった。楽になった。

朝食が運ばれてきた。前前日の晩以来丸1日ぶりの食事だ。朝食を8割くらい食べた。味噌汁がこんなに美味しいとは。リハビリ担当の方が「きついよね」「無理しないでいいからね」と言いながらも、車椅子でリハビリに運んでくれた。血栓予防にもなるし、いいらしい。写真を撮ってもらった。自分の顔を見るのは手術後初めてだった。少しむくんでいた。

改めて手足が動くことを確認した。リハビリ担当の方は「よかった」と自分のことのように喜んでくれた。ちょっと言葉が出づらいと言ったところ、言語聴覚士さんが月曜に出てくるから聞いてみるねと言ってくれた。

戻る途中CT、MRIを取りに行くよと行って看護師Aとエレベーターで2人きりになった。「昨夜手術は何時間で終わったの」と聞かれ4時間半。2回吐いたことを伝えた。自分の尿道カテーテルの瓶が彼女に持たせてたので持ちますよといった。さすがに尿はもたせられない。。

CTを撮ったがMRIは金属製品がダメなので尿道カテーテルを外してからとることに。病棟に戻って、尿道カテーテルを外してもらった。

また一段と楽になった。

昼食が来て歯磨きをして少し眠った。

術後0日目は頭痛は10段階中8だったが、術後1日目は頭痛が6か7だった。寝たり起きたりして体勢が変わる時に特に痛む。15時にMRIを撮りに行った。術後のMRIは寒かったしきつかった。終わると執刀医が来ていてエレベーターまで送ってくれた。「今日もう歩けるの?若いねえ」と言われたが彼自身も40歳くらいらしい。

階段を上がると看護師Aと会って「大丈夫ですよ(私が連れていきますよ)」と言って、左手で引っ張ってくれたけど、執刀医の方が「いいよ」と言った。

ベッドに戻るとひと休みしてまもなく頭を洗いましょうかと別の看護師さんが言ってくれた。

シャワーに入ると体だけ自分で洗った。髪は看護師さんが洗ってくれた。おかげで鉄腕アトムみたいになってた髪がマシになった。でも結構今回は髪を刈られた。

看護師さんに軟膏を塗ってもらえた。

その日は前夜に比べて普通に寝られた。ただ術後頭痛だけは一日中続いていた。点滴はアセトアミン。服薬ならロキソニンカロナールロキソニンは効きにくいようだ。

術後396日後 再手術当日

当日は0時から絶食、6時から絶飲食。ただし病院から提供されるポカリスウェットを少し薄めた飲み物を6時と11時に飲んだ。悪性神経膠腫を光らせて腫瘍のありかを知らせるラベルを12時くらいに飲んだ。

思ったより時間があったので、12年前に買ったTOEICの問題集を解いたり、父おすすめの「運気を磨く」を読んだりした。洗面台で自分の写真を記念に撮った。

病室からストレッチャーに乗り込む。昨年入院したときに連絡先を交換しようとした看護師さん(以下A看護師)が突然現れた。「あれからリハビリ病院いつまでいたんですか?」「お仕事は何されてるの?」「私のこと覚えてます?」とか色々聞かれた。おかげで手術前とは言えないくらい緊張がほぐれた。

手術室に着いてまた看護師さん2人、麻酔科医1人がいた。

「折角金曜の夜なのにすいません」と言い「いえいえ」 と返された。

麻酔科医からゆっくり呼吸すってください、眠くなりますからと言われ、2〜3回吸うとねむりにおちた。先生は自分が意識のあるうちはいなかった。

 

麻酔から目覚めて意識が戻る。

手術時間は?」 4時間半」

「腫瘍が全摘できましたか 」「全部取ったよ」

「右手足は動くか?」 動いた!

ありがとうございます。お疲れ様です。ありがとうございます

祈るようなすがるような気持ちだった。

 

病室にもどってからは、前回がひどかったので、迷惑をかけないようになるべく早めに言おうと思った。でも頭を絶対固定しなきゃいけないのでどうしても制約がある。術後最初に測った体温は38度近く。看護師さんが「手術後だと異物が入ってきたのを察知し熱反応が起こるからそういうもんだよ」

看護師さんがこれはなんですか?「スマホ、ペン」簡単な物を認識する確認。

尿道カテーテルをつなげられたのは恐れていたほど問題なかった。1回目の吐き気は突然きた。たぶん12時前くらい。途中手術直後の頭痛(10段階中8くらい)で眠れないので持参の睡眠薬を飲んだ。しかし3時くらいに起きた。2回目の嘔吐は3時すぎくらいで嘔吐物に緑茶しか残ってなかった。結構派手にやった。緑茶はやめた方がいいと勉強になった。やっぱり水。嘔吐して汚れた服を朝になったら変えるからと言われた。朝になったら血栓予防のやつを外すからと言われた。朝までが長かった。そのあと気持ちよく吐き出せたのかよく眠れた。看護師さんにだいぶ迷惑をかけてしまった。